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今日

 投稿者:とびうさぎ  投稿日:2018年 1月19日(金)00時44分58秒
返信・引用
  今日が終わる
今日は何をしたのだろう
一生に一度しかない今日の終焉

日に日に一日の価値が薄れてゆく
人生の価値が薄れてゆく感覚が襲う
もう戻らない
一瞬の過去にも
この今にも

後悔ばかりだ
当たり前か
最良の選択肢は未来からしか知り得ない
人生は後悔の積み重ねなのか

今日も生きた
成功も失敗も
すべてが積み重なって
今の自分がいる
たとえ今まで最良の選択肢を選び続けたとしても
今の自分は超えられないだろう
そう思うことでしか救われない
そういう世の中だ
周囲の人からの評価は残り続けるのだから

結局は何のために生きるのか
この人生を全うした先に
必ず何かが
あるのだろう
そうでなければ
人生短すぎる

ただひたすらに
懸命に
今日を生きる
 
 

行先

 投稿者:フリーター  投稿日:2017年 6月 4日(日)15時58分39秒
返信・引用
  今日の昼は、温とも冷とも言えぬ”常温”うどん。冷のうどんを作ろうと麺をしっかりと氷でしめてから、さて具は何にしようと考える。この時すでに作業順序が逆なのだが、これが私の常である。常温のうどんを私の常で作るのだから、これは常うどんなのだ。さて、冷凍庫に見つけた同居人の春菊をほんの少し拝借してから油揚げを取り出す。お揚げの上に砂糖と醤油をかけてレンジに放り込むという乱暴さだが、このくらいの乱暴で丁度良い。後は麺つゆをかけるつもりだったが、いや止めた。お揚げがあるなら、甘い鰹のお出汁が良い。鍋に出汁の素と砂糖、思い付きでごまを挽き入れ醤油をたらり。一煮立ちさせてから水を加えて麺にかける。出来上がった甘いお揚げを乗せて、完成だ。お揚げは熱いが麺は冷たい。何とも不思議なうどんが出来上がったが、この文章を書いているうちに器の中身は均一な温度になっていた。一口啜る。うん。上手い。私の人生も、このようなもので良いのだと、勝手に納得した日曜の午後だった。  

実像は

 投稿者:q&q  投稿日:2017年 5月24日(水)09時49分37秒
返信・引用 編集済
  普段、我々が当たり前だと思っていることが、実はそうではないということがよくあるものである。激動の幕末へのきっかけになった「桜田門外の変」の当日、水戸浪士の襲撃の現場を近くの大名屋敷から目撃した藩士が、実際の斬りあいを見て、想像していたものとの違いに驚いたという記録が残っている。大立ち回りではなく、鍔迫り合いに終始し襲撃の後、現場には指や耳が散らばっていたそうである。

こういう記録を見ると幕末動乱前は武士でさえ、斬りあいの認識は現代の我々とあまり変わらないと言えそうである。江戸時代、幕末以前はごく少数の例外を除いて武士であっても、斬り合うなどということはまったくといっていいほどなかったということだろう。また、大正か昭和の始めの頃、幕末の動乱時代に少女時代を送ったおばあさんが活動写真(映画)のチャンバラを見て、「これは踊りで、実際の斬りあいはまったく違う」と口癖のように言っていたということも、どこかで聞いたことがある。

さて、私は箱根街道の起点、静岡県側の三島の宿場から旧の東海道が残っているところを選んで歩き、箱根を越え小田原を過ぎ街道脇にある国府津駅まで歩いたことがある。箱根は険しい山の中を旧街道が通っている。昼なお薄暗く昔は山賊が出たというが、なるほどと思えるところも多い。江戸時代でも山賊が出たと信じている人も多いだろう。

しかし、江戸時代は治安がよく現在とは比べものにならないぐらい犯罪が少なかったことが明らかになっている。まして、東海道は、現在国道一号線となり多少ルートも変わっているが当時も今も日本第一の幹線道路であることに変わりはない。山賊が出るとすれば小田原藩あるいは幕府が放って置くわけもない。乱世は別として、江戸時代の箱根の山賊などは荒唐無稽なお話や読み物の世界なのである。江戸時代の服装、風俗などを含めて、テレビや映画の映像で我々が認識している江戸時代と実像とはかなり違うと言って間違いないだろう。
 

失敗

 投稿者:せんちゃ  投稿日:2017年 2月25日(土)18時12分36秒
返信・引用
  皆さんは、自分の努力の値と結果が結びつかなかった経験はありませんか?
身を削って何かに打ち込んだことの代価、成果を数字や形に残るものにすることにこだわりすぎていませんか?
頑張りと結果は比例しません。
よく結果が出なかったり悔しい思いをした人に、「努力したことに意味があるよ。」という言葉で励ます人がいますが、これは言われた方からすると綺麗事に過ぎないと感じるかもしれません。でも違うんです。
努力と失敗というのは切っても切り離せない縁を持った言葉です。
もし何かに失敗したとしましょう。その失敗してしまったこと、敗北してしまった試合、不合格だった受験に、リベンジするチャンスがあったとしましょう。
そうすると「失敗」という言葉は武器になります。何がダメだったのか、次のリベンジに備えどこを改善できるのか。
こう考えてみると、「失敗」という言葉は、二面性を持ってるということがわかります。
失敗とは、何かを敗け失うとか書いて失敗です。では、失敗で失う物ってなんでしょう。
それは、その時のチャンスです。人にはそれぞれの勝負の瞬間があり、一度きりのチャンスしかない勝負とリベンジが可能である勝負があります。持続的に行われる長期間の勝負もあるでしょう。
敗け失うのはその時のチャンス。
つまり、それ以外は勝ち得たものと考えてはどうでしょうか。
結果や数字で人生が左右される勝負というのは人生において、ありえないものではありません。ですが、その勝負あら逃げた自分には敗北も勝利もないのです。
失敗を武器にすると、人生が変わります。
バネでもあり武器でもあり勝利でもあります。
失敗というこの言葉の二文字を、あなたの足枷にするのは、もうやめましょう
 

60歳のラブレター

 投稿者:pico  投稿日:2016年11月28日(月)09時04分10秒
返信・引用 編集済
  私が先に死んだら
新しい奥さんをもらいなさいよ。
いいとも、その時は
うんと若いかみさんをもらおうか。

そんな話をしたこと覚えているかい。
あれは、冗談のはずだろう?
それなのに、ほんとうに先に逝くなんて
そりゃないよ。

でも、心配するな。
なんでもひとりで出来るようになったんだ。
掃除だって、洗濯だって、
ちゃんとやってるさ。
料理だって、立派なもんだ。
きみに見せたいくらいだ。

でもな~
でもな~
ひとりぼっちで笑うのって
むずかしいよ、、、


その他、わたしのエッセイ受賞作(18編)をお読みいただければ幸いです。

http://blogs.yahoo.co.jp/picorobin/MYBLOG/yblog.html?m=lc&p=1

 

天国のおばあちゃんに、ききたいこと。

 投稿者:えめまるご  投稿日:2015年 1月12日(月)15時29分13秒
返信・引用
  「おばあちゃんは、どうして死んでしまったの?」
おばあちゃんが生きていたとき、おばあちゃんの心が入って動かしていた、からだの期限が切れたから。いまどきの科学で説明できてしまう構造のからだだから、動かせる時間には限界があるんだよ。

「おばあちゃんには、わたしがみえているの?」
いつでもどこでも、見えているよ。

「見られたくないことも、見られているの・・・?」
ここからは、見ていいことしか見えない。見るべきでないことは、見えない。でも、見ることができなくて嫌な思いをすることはない。見るべきことは、すべて見えているから。あなたを、みんなを、見守っているから。

「おばあちゃんは、私が考えていることがわかるの?」
わかるべきところはわかるし、そうでないところはわからない。おばあちゃんのことを思ってくれている気持ちは、届いています。

「おばあちゃんは、じぶんのお葬式を見ていたの?」
見ていたよ。おばあちゃんの好きな色の花を用意してくれていましたね。おばあちゃんのからだを、みんなで見送ってくれてありがとう。でも、あなたが泣き止まないから、悪いことをしてしまった、と思いました。あなたには、笑っていてほしい。

「おじいちゃんは、おばあちゃんのところに行ったの?」
来ましたよ。もう少し生きてもいいと思ったけれど。どうにも、からだが言うことを聞いてくれなくなってしまったようです。

「死んだら、どうなるの?」
死んだら、からだはその人のものではなくなる。つかいおわった、頑張ってくれたからだとは、永遠におわかれしなくちゃならない。おばあちゃんのからだは、燃えてなくなったでしょう?でもそれは、“おばあちゃんのからだ”であって、“おばあちゃん”ではない。おばあちゃんは、生きている人には見えないけれど、みんなのすぐそばにいます。

「天国はどんなところ?」
ここは、天国ではないかもしれない。いま、おばあちゃんは、大好きな色と、大好きなにおいと、大好きな音につつまれています。おばあちゃんは日本舞踊が好きだったから、いまでもたまに踊っているよ。おじいちゃんもいる。おばあちゃんのお母さんやお父さん、おともだちも、みんないっしょにいる。からだがないから、食べなくても寝なくてもいいのだけれど、みんな好きなものを食べて、お昼寝もしている。ほらまた、おじいちゃんはお酒を飲んでます。ここには時間もない。ここがどんなところかは、あなたが生きている世界の知識や感覚、ことばでは説明できません。

「地獄もあるの?」
わからないけれど、ないと思います。ただ、生きていくうえでやってはならないことをした人や、生きることを諦めてしまった人は、少しせまい箱に入れられてしまうみたい。

「天国では若返るの?ずっとおばあちゃんなの?」
こちらには、からだがないから、若いとかそういうのはありません。でも、おじいちゃんはおじいちゃんだと分かるから不思議です。おじいちゃんといるときは妻であり、おばあちゃんの両親といるときは娘であり、いつかあなたに会うときは、おばあちゃんであります。

「生まれ変わることはあるの?」
ありますよ。しばらく休憩をして、あなたや、あなたのお父さんお母さん、みんなを待つ。みんなに会って、思い出話もすんだら、また新しいからだに入る。新しいからだに入っているあいだ、おばあちゃんはあなたのおばあちゃんだったことを忘れてしまうけど、またいつか戻ってきたときに思い出す。だから、おばあちゃんは、いま、たくさんのことを思い出して、いろんな人と懐かしい話をしています。
せまい箱に入れられてしまった人は、残念ながらみんなを待つ時間がもらえない。なるべくすぐに新しいからだに入って、もう一度生きなければいけない。

「死んでから、会ったことない人に会えるの?昔の偉い人にも会えるのかな?」
新しいからだで生き始めた人以外なら、会えますよ。あなたが生きている物質の世界とは違って、ことばがなくてもお話はできる。だから、どこのだれとでも、お話ができる。

************************************

「天国とか魂なんて、本当にあるのかしら。死んだら何もなくなって、終わりじゃないの?」
科学で説明できる程度のことしか信じないなんて、そんなさみしい生き方はやめて。あなたの喜びや悲しみ、おばあちゃんが生きていて、あなたが生きていて、おばあちゃんが死んでいった意味を、すべて物質で説明してしまうの?あなたのからだが動いていて、そのからだで生きているうちは説明できてしまうかもしれない。けれど、じゃあ、いまこのおばあちゃんがあなたを思う心は、説明できないから、無いものなのかしら。おばあちゃんを無いものにしないで。

「辛くて、悲しくて、苦しくて、こんな思いするくらいなら死んでしまいたい。死んだら何もなくなって、こんな思いしなくてすむでしょう?」
そしたらあなたは、せまい箱に入れられてしまう。おじいちゃんにもおばあちゃんにも、誰にも会えない。確かに、死んだら悲しみや苦しみを味わうことがなくなる。喜びや楽しみとも違う、生きる人の感覚では表せない心の中ですごすことになる。それは幸福感に近いけれど、同じではない。喜びや悲しみは、生きていないと感じられない。おばあちゃんは、あなたが精一杯に生きて、いつか会いにきてくれることを信じているよ。

************************************

「おばあちゃんに会いたい。もう一度話がしたい。もう二度と会えないなんて・・・。」
あなたが、そのからだの期限がくるまで生きて、おばあちゃんのことを忘れないで、おばあちゃんがあなたを見守っていると信じてくれていれば、いつかきっと会えます。それまで、生きるものにしかできないことをたくさんして、生きるものにしか味わえないものを感じて。おばあちゃんは、いまを生きるあなたを羨ましく思います。

「おばあちゃん、おばあちゃんの声は聞こえないけれど、私の声は聞こえているの?」
ちゃんと、聞こえていますよ。ここからは、生きていたときよりもよくあなたのことが見えるし、心が聞こえるし、いつでもそばにいることができる。だから、それを信じて、安心してあなたの人生を生きてね。そして、またいつか、会いましょう。
 

安楽死

 投稿者:天歩夢人  投稿日:2014年 7月 9日(水)11時00分27秒
返信・引用
  尊厳死=安楽死という議論ががある、そして安楽死を合法化している国がスイスを始めとして世界で五カ国もある、然し尊厳死があるならば尊厳生があってもなんの不思議もない筈で死ぬこと即ち生きることである、なんだか禅問答みたいだがより良く生きることが眠るがごとく自然死に至る道では無いだろうか ? イコール尊厳死である、一方安楽死賛成派は助かる見込みのない末期症状の人の苦しみを軽減する為のものと言う、予め自分自身が納得して決めていれば良いとも言うが果たしてそんな単純に直接的なものだろうか、家族なり医療機関が利益の為、負担軽減の為にこじつけた理屈ではないか、議論百出するところでもある、だが生物の生死は自然の摂理であるのだから人としてより良く尊厳を保ったまゝ自然死する為の努力を日々怠っては成らぬと日々思いを強くしている。貴方は何派 ?

 

赤いベタ

 投稿者:リン  投稿日:2014年 4月20日(日)22時43分10秒
返信・引用
  えー、もう酒飲んだから迎えに行けんわ。
お母さんも?
うん。
………そっか。

父との電話を切り、荷物を抱えて駅から歩いて帰る。
四月後半だというのに、やはり夜は寒かった。
家に着いて靴を脱ぎ、声のする方へ行くと途中で寝ていたDivaが駆け寄ってくる。
頭を撫でて、私は声のする方へ。
台所には妹と母がいて、私はすかさず妹に抱きついた。

「……おかえり!…お疲れ様」

「うん。ただいま………」

「お帰り。リン、あんたクマ酷いよ?熱あるし」

私の額を触りながら母が言う。
言われて自分で触れると確かに熱かった。
微熱だが、低体温の私からすればかなりの熱さだった。

テーブルの上にあった月餅を一枚口にする。

「………リンちゃん!?」

「今からコンビニ行くけど、何かほしいのある?」

「………えっと、チョコシューと紫芋アイス!」

月餅を一枚口にした時点で妹は過食だと気付いた。
そして、一緒に食べると言ってくれた。

「………この前、リンがおらん間テレビで精神の番組やっててね。過食がテーマやったんだけど、過食って心の隙間を埋める為にする、って言
ってた」

「………………」

唐突に言われた母の言葉。

「………………」

一瞬だけ母に抱きついて、私は彼女に疲れた。と言った。

「リンは本当に哀しくて、淋しいんだね」

「…………。出てくる」

財布を持って愛チャリ、サド丸起動。
石川と同じく田舎なこの街に街灯はない。
コンビニに着いて妹に言われた紫芋アイスとチョコシューを籠に入れるとあとは適当に突っ込む。
何が食べたい、とかは特にない。
コンビニで高過ぎる料金を払い、多過ぎるお菓子を買い込み再びサド丸に乗る。
スナック菓子を齧りながら家に向かってサド丸を走らせる。

昨日も仕事終わりに過食した。
食べ物を胃に詰め込んだ。
苦しくて苦しくてとにかく助けて欲しくてたまらなかった。
でも、どうにも止められなかった。
痩せていたいのに無茶苦茶に食べ、そして後悔する。
肥えを何よりの罪悪とするくせに、進んで爆発したようにそんな行動をする。
馬鹿げている。
ならしらければいい。
……そんなことは、分かっている。
だけどしてしまうから辛く、苦しいのだ。
昨日の朝、私は唸りながら布団にいた。
吐きたくても吐けず、胃薬を飲んで布団に転がっていた。

胃の限界を超えた量で身体中が破裂しそうだった。
うんうんと唸りながら、帰宅した彼の後ろ姿を布団からただ眺めているのがどうしようもなく辛かった。
子供扱いはしねーよ、と言われてはいたが、こんなときくらい少しでいいから背を向けず優しくして欲しかった。

「俺は自分が後悔するって思うことは最初からしないから」

そう言われて、何かが凍った。
私は、其の後ただ眠るしかなかった。

過食は代理行為だという。
何かを埋めようとしての行動だと。
母が言ったことはあながち外れてはいないのだろう。
ずっと生に対して絶望しながらなんとか生きていた七年間。
ずっと死にたかった七年間。
希死願念が常に隣にあった七年間。
愛されたかった七年間。
自分で自分を愛するしかないと思ってきた七年間。

家族が出来てもう一年が経つ。
私は、母に愛されたかった。
ちゃんとした家族が欲しかった。
その中に入れて欲しかった。
彼に愛されたかった。
愛されているのだと実感したかった。

そんな私は今ベッドの中にいる。
お腹は痛いけれど、唸ってはいない。
昨日ほど食べ過ぎなかったのは妹が菓子パーティーと称して付き合ってくれたおかげだろう。
頭が痛い。目がチカチカする。
身体が熱い。


淋しくて、虚しくて、哀しくて、どうしようもなくて、



世界が廻る。
 

(無題)

 投稿者:ss  投稿日:2014年 3月 1日(土)00時19分36秒
返信・引用
  22歳にこの間なった。20歳のときのような特別感などなく、今年も去年と同じいつもの平日のようだった。この春私は社会人3年目をむかえようとしている。遊ぶ友達は変わりなく、遊ぶ内容も特に変わっていない。ただ歳だけはやけに早くとっていくような感じがする。周りは恋活だとか婚活だとかで年中うるさい。まだそんな焦らなくても、と思っている自分に友だちはすぐツッコミをいれてくる。若さ故の悩みさえも失った毎日だ。Facebookで夢を追うために上京した幼馴染の様子をみて、遠く感じて寂しくなるぐらいだ。
夢を叶えることはすごいことだ。この間のソチオリンピックでは金メダル以上の何かを、みれたような気がする。それぐらい感動した。夢の見つけ方を学校では教わらなかった。ゆとり教育だからじゃないはずだ。変わりたいがどのように変わりたいか分からない。夢を見つけることは夢にはいりますか?遠足のおやつにバナナははいりますか?一緒かな。そんなこと言ったら東京にいる幼馴染に笑われるかな。
悟り世代ってこんな私のことを言うのだろう。満足してなくてまだ迷ってる。大人として働いていてもまだ誰かにすがりつきたくて迷ってる。何かに挑戦したい、でもその何かは何?
時間もお金もない。親孝行もしたい、けど自分の人生。自分で切り開いていくものだと知ってのこの叫び。世界にこのつぶやきを配信して数分後に削除する。秋の校庭に広がった銀杏の絨毯を、幼馴染は覚えているだろうか。そこで口にした約束の言葉を。葉に埋れて、少し湿ったあの感じを。寝転ぶと空は天然の万華鏡のように黄色い仲間がゆっくりと落ちてきたあの瞬間を。結局は君になりたいのかな。会える自身がないから夢を見つけて会いにいけるきっかけを探しているのかな。君は ずっと 遠い遠い。

http:/

 

なんで

 投稿者:ばん  投稿日:2013年11月19日(火)15時33分44秒
返信・引用
  たまに、友達って何だろうって思う。。。
適当に愛想笑いして、その場にあわせて呼吸する。
その子に嫌われないように本当の自分かくしてなにがあるのかな…
どれをがんばっていいかわかんないことがある。
でも、生きなければならない。こんなに汚くてつまらない世界でも…
 

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